庭月観音の歴史

庭月観音とは

 庭月観音は、山形県最上郡鮭川村にある天台宗の寺院で、正式には庭月山月蔵院といいます。ご本尊は聖観世音菩薩さまで、庭月観音という名称で親しまれております。
 清流鮭川の河畔に位置し、最上三十三観音打ち止めの寺として、本堂の笈摺堂(おいずりどう)には、おびただしい数の笈摺や金剛杖が納められています。また、出羽の国(最上・庄内・置賜)百観音結願の寺、山形十三仏八番聖観音霊場、山形百八地蔵第百番びんてんこ地蔵、新庄最上地巡り観音第二番霊場として名高く、満願成就の巡礼の寺として多くのご信者から驚きご信心をお受けしております。毎年、八月十八日には灯ろう流しが寺院前の鮭川にて開催され、清流鮭川を灯ろうが流れる様は、荘厳なものです。

庭月観音縁起

 庭月観音縁起によると、ご本尊は一千有余年前の昔、比叡山延暦寺第三祖円仁慈覚大師の三礼行法のご御尊体です。
 五十九代宇多天皇の第九皇子敦実親王の後胤である六角判官時信郷の父親、頼綱郷は生来深い仏道信仰者で、ことに観音経普門品の読誦は夫婦ともどもの日課としていました。
 ところが奥方が病床に就き危うくなったある夜、その形相瑞厳の僧が奥方の枕辺に立ち、比叡山四明獄の使者であると名乗ると薬草を置いて立ち去りました。その薬草を用いると病は忽ち快癒したのです。不思議に思った時信郷が山奥深くに分け入り彷徨い続けたある夜、一条の光明の中に奉拝できたのが、庭月観音のご本尊でした。
 それにより、佐々木氏代々の尊崇するご本尊となり、羽州仙北郡への下向を経て天文四年(1535)に鮭延城主となった佐々木貞綱公が城内に聖観音像を安置したことに始まります。
 その後、一族・庭月氏の進言もあり、天文15年(1546)に鮭川沿いのお堂を建立し、観音像を鎮座しました。後年、周辺は横手の小野寺氏と大宝寺の武藤氏、山形の最上氏による戦乱が続き何度も領主が変わり、山内も一時衰退しました。近世に入ると藩主である戸沢氏に崇敬され、寛文11年(1671)に現在地に遷座 し延宝4年(1676)に観音堂が落成しました。
 現在のお堂は弘化年間に建てられたもので、境内にはその他におかげ様門や仁王門、巡礼堂、鐘楼、阿弥陀堂などの諸堂があります。また、最上三十三観音巡礼の最後の札所となっているため、観音堂にはおびただしいお札が貼り付けられていて信仰の篤さがうかがえます。
 毎年8月18日には灯ろう流しが行われ、数千の灯ろうが鮭川を埋め尽くします。また、観音堂に施された彫刻も見事で特に蝦虹梁には2体の力士像が彫り込まれています。力士像は秋田県の中央から南部、山形県では北部に集中している寺社建築彫刻で鮭川村も、その文化圏だった事がわかります。

庭月聖観世音菩薩立像 (鮭川村指定有形民族文化財)
~一千年の昔より、今に伝わるご本尊~

ご本尊  名称:庭月観音聖観世音菩薩立像
     時代:平安時代(今から約千年前・慈覚大師円仁の一刀三礼の御作)
     仏像様式:比叡山延暦寺横川中堂観音様式

 ご本尊は、みちのくのお大師様・慈覚大師円仁の一刀三礼の御作(おんさく)と伝わっています。平成21年にご信者さまのご支援のもと、ご本尊・聖観世音菩薩立像の大修繕に併せて、初の本格的な調査を行いました。
 これにより、今まで約五百年前に作られたと考えられていたご本尊は今から約壱千年前もの昔に作成され、「比叡山延暦寺横川中堂聖観音の様式」を今に伝える全国的にも貴重な平安仏であることがわかりました。
 通常は秘仏として公開はしていませんが、12年に一度のご開帳ではご信者の皆様に壱千年の微笑みを与えてくださいます。皆様の篤きご信心とともに、未来永劫護持してまいります。

令和の御開帳特設ページへ

太古より文化を育んできた清流「鮭川」

 古来より山・川・海は神仏と私たちが出会うところとされ、不思議な霊力があると信じられてきました。
 とくに南北に流れる川の西岸を彼岸といい浄土世界を示し、清浄な世界であるといわれており、そこに庭月観音が位置しています。さらに私たちがこの世での役割を終えた後の、あの世への旅路の途中には川が流れているといわれます。川を渡るには3つのコースがあり、

 ①コース 観音信仰篤き方は観音様に手を引かれ、安心してわたります。
 ②コース 生前に功徳を積まれた方は舟によってわたります。
 ③コース 生前に一切の善行に恵まれなかった方は、浅瀬を探すか泳ぐかして自力で渡ります。

 生前の行いによって3つの道に分かれますので、三途の川といわれます。

 奇しくも当山は、南北に鮭川が流れるなか、西岸(彼岸)に鎮座し赤い橋が観音様の功徳を表します。また、観音堂の背後には日山・鳥海山などがそびえ、神仏と出会い加護を賜る聖地とされています。どうぞ善男善女のみなさま、さわやかに参拝され観音妙智力を体感されましょう。